伝説のエースパイロットたちが凄すぎた[adsense]

「零戦撃墜王」岩本徹三

1916年6月14日〜1955年5月20日大日本帝国海軍戦闘機搭乗員。樺太出身。最終階級は海軍中尉。自ら「虎徹」と称し、垂直降下一撃撃墜を特技とした空戦の達人だった。操縦練習性を卒業後、航空隊勤務を経て第13航空隊に配属され中支戦線に進出し、昭和12年2月25日の南昌攻撃で初空戦ながら単機にて敵機5機撃墜し、9月に帰国するまでに計14機を撃墜。日華事変のトップ・エースとなった。昭和16年4月空母「瑞鶴」乗組となり、零戦訓練を受ける。10月新鋭空母「瑞鶴」戦闘機隊に転じハワイ作戦・インド洋・サンゴ海海戦に参加した。昭和17年8月、大村航空隊教員に転じ本土へ帰還、横空、追浜航空隊勤務を経て昭和18年3月、新編成の第281航空隊付に発令され、北千島方面の防空任務ののち11月にラバウル派遣隊に加わり、激戦のラバウルに進出。翌年2月末トラック島へ後退するまでの3ヶ月間、第201・204・253航空隊に転じ連日の迎撃戦に健闘し、142機を撃墜した。昭和20年3月、第203航空隊戦闘303飛行場に転属し、南九州防空戦、沖縄航空戦に参加して岩国基地で終戦を迎えた。総撃墜機数216機、協同撃墜機数26機、地上撃破2機。戦後、2年間の闘病生活だったが元気になったらもう一度飛行機に乗りたいと念願したという。零戦撃墜王岩本徹三氏は日華事変から終戦までの回想録を大学ノート3冊にぎっしり書き残し昭和30年5月20日に逝去。[adsense]

「ラバウルの魔王」西澤廣義

1920年1月27日〜1944年10月26日大日本帝国海軍の戦闘搭乗員。長野県上水内郡小川村出身。海軍中尉(戦死後、飛曹長から二階級特進)昭和14年(1939年)操縦練習生課程修了。台南空、大谷二飛曹とともに坂井一飛曹から鍛え上げられ、3人共に台南空の主力となっていった。1942年8月7日のガダルカナルへの長距離作戦ではアメリカ軍艦載機との空戦においてF4F6機を撃墜した。自らも被弾したが無事に帰還している。11月に台南空は部隊改称により251空となりこれ以降も西澤はP-40やP-38、そして、逆ガル翼の新鋭機F4Uを相手に次々と撃墜を重ねていった。1943年9月に不足し始めた戦闘機搭乗員養成のため一時的に本土へ帰ったものの練習生を「戦闘機に乗るなど3年早い」と不合格にしたというエピソードも残されている。その後、再度戦闘員としての任務を希望し、フィリピンの201空に配属される。1944年10月25日の神風特攻隊の初出撃の際には関大尉率いる敷島隊の直掩として零戦4機を率いて出撃し哨戒中のF6F2機を撃墜して敷島隊の突入進路を切り開くという重要任務を遂行した。この際、西澤自身も神風特別攻撃隊への参加を再三直訴したが、彼の抜群の技量ゆえ却下された。その翌日、乗っていた零戦を別の搭乗員に譲るため西澤は輸送機に乗りマバラカットキチへ向かう。しかし、F6F2機の攻撃を受け、撃墜された。抜群の技量を持ち、日本海軍搭乗員の中でもトップクラスであった西澤が戦闘機搭乗員ではなく、輸送機の中で為す術もなく死んでいった事実に当時の同僚たちは激しい無念を抱いた。彼の障害での撃墜数は公式記録では協同撃墜機429機・撃破49機、このうち単独撃墜機36機・撃破2機となっている。家族への手紙では143機、戦死時の新聞報道では150機と書かれている。草鹿任一司令長官より100機撃墜記念の感状と軍刀を受領していることから少なくとも海軍航空隊内部では100機以上の撃墜王として認識されていた。一般に認識されているのは87機であり、これは岩本徹三の撃墜数80数機とほぼ同数。80機を超える撃墜数を達成したエースパイロットとして認識されるようになっている。敵国であるアメリカ合衆国の国防総省とスミソニアン博物館には西澤の肖像が飾られている。

「大日本帝国海軍のエース」坂井三郎

1916年8月26日〜2000年9月22日。大日本帝国海軍の戦闘機搭乗員。佐賀県佐賀郡西与賀村出身。太平洋戦争時は海軍少尉、最終階級は海軍中尉。戦後に海軍時代の経験を綴った著書「大空サムライ」は世界的ベストセラーとなった。故郷で飛行艇の旋回を見て飛行機に対しての憧れを持ち海軍へと入隊する。当初は檻の砲塔砲手に命じられるものの、飛行機パイロットへの道を志すべく操縦練習生を目指すことを決意する。そのことで上官からの嫌がらせや体罰などにも苦しむも無事、最後のチャンス(年齢制限)をものにして搭乗員となる。練習生時代から才能を発揮したようで、主席で卒業。戦闘機パイロットとなった。日中戦争時に坂井三郎は中国大陸に展開する部隊に配属。ここで歴戦のパイロットたちからの教育を受けつつ、経験を積む。1940年には当時の最新型であるゼロ戦に乗ることになった。沈着冷静、巧みな操縦技術や冷静な戦闘機動など才能を発揮。当時指導に当たった先輩の中には笹井醇一中尉の姿もあった。1941年の開戦後、彼の所属する部隊は南方を転々としつつ、彼も戦果を重ね長躯ラバウルまで進出し、ソロモン海、ニューギニアでの戦いを繰り広げることになる。しかし、1942年8月ガダルカナルでの最初の航空戦の際、敵機と戦闘中頭部を負傷し右側の視力を失い、半身不随のような状況になる。その後、不屈の意志で4時間という長時間飛行を行い、無事ラバウルへと帰還するという奇跡を起こした。帰還後は内地へと撤退することになるがこの際、親友であった笹井醇一との別れを惜しむ。正確な数字は定かではないが、当時の彼の敵機撃墜数はかなりのもので「撃墜王」として当時の海軍から崇められた。

「ラバウルの貴公子」笹井醇一

1918年2月13日〜1942年8月26日大日本帝国海軍の戦闘機搭乗員。東京都青山出身。海軍少佐(死後、中尉から二階級特進)造艦大佐の長男として東京に生まれる。父親の転勤に伴って各地を転々とするも、18才で海軍兵学校に入学。1941年11月に訓練課程を終了、台南空に着任。世情既に一面暗雲立ちこめており、翌12月には太平洋戦争開戦。即戦力のみが求められる最前線において、先任の搭乗員である坂井三郎の指導の元、メキメキと技量を延ばしていく。部隊の進出に伴い、フィリピン・蘭印・ラバウルと転戦。坂井・西沢といったエース達サポートをうけ撃墜数を増やしていき、いつしか名実共に 「台南空の中隊長」 へと成長していった。1942年8月戦況が悪化する中、師であり部下であり、そしてまた親友であった坂井が負傷し内地に帰還。同年8月25日笹井中隊が連日推して出撃。この日の敵基地上空航空戦で、遂に未帰還となる。彼の撃墜は誰一人見ていなかったが、戦後米国の証言により彼の最期が明らかに。その日、米海兵隊撃墜王のマリオン・カール大尉と一騎打ちとなり、敵機を失速、墜落寸前まで追い詰めるもカール大尉の捨て身の反撃を受け、爆散した。

ネットでの反応

・偉大な先輩方に敬礼!・偉大な若者達の多くの死を無念に殉ず・・・・・特攻隊の生き様は立派だったと思う。素晴らしい。自分が彼等と同じ日本人だと思うと、自分の生き様が彼等とあまりにもかけ離れすぎて自分が恥ずかしい。
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